夜逃げ

確かに、1,000万円は割安な物件であることは確かでした。 そのころの地元デパート "三喜" はすでに、あずま銀行の管理下にあり専務は田村と言って、銀行から来ている人間です。 そして私の窓口はこの田村専務になり、『どうですか? やってみませんか! 運転資金も含め700万円は出します。 あなたの1軒目も大分繁盛していると聞いていますし・・。 信用金庫に頭金も有るのであれば、それをウチに移して定期にし、全額融資ということも可能です!』と私にとって良い話ばかりでした。 若いせいもあり、私も大分その気になってきたのも確かです。 そして1ヶ月ほど悩みましたが、私は幸子にも相談せずに結論を出しました。 勿論GOです。

旧所有者である浦安市の建設業者の渡辺建設が内装費用100万円で良いということになり契約書にサインしました。 そして、私が32歳の10月に2店舗目の "プチムサシ" が開店しました。 デパ地下の飲食街ということもあり、"本店のムサシ" など問題になりません。 プチムサシの平日の売上げは平均で7万円~8万円。 土曜日・日曜日となると15万円前後まで行き、月末や給料日の後の日曜日は20万円を売上げます。 本店のムサシを青木というコックさんに任せて、私は新店舗のプチムサシの仕事に没頭しました。

しかし、それとは反対に "ムサシ" の売上げが徐々に下がって行くことになり、そして更に幸子の妊娠が分かりました。 お店が軌道に乗るまでは子供をつくらずに頑張ろうと決めていましたが、彼女も30歳を超え子供も欲しいということでした。 彼女も3年以上、朝9時から夜10時まで毎日、私と共に働きづめでしたので、そろそろ引退させて、子育てをさせて上げないとと思い子供を産むことに賛成しました。 彼女は昭和57年(1982年)11月末、予定の1月初めの1ヶ月前まで、大きなお腹で店の中を働き回り、昭和58年(1983年)1月6日、長男 "直" が生まれました。

正月の忙しい時期で、直も生まれて来るのを考えてくれたのか、私は昼の忙しい時間が終わり川崎の病院に着くと、すでに陣痛が始まっており、私が到着して30分もしない内に生まれました。 私は安心して幸子と男の子を見て、直ぐに夜の仕事のために土浦に戻りました。

1月の終わりに、幸子は直を連れて土浦に戻り、夜中に直のために、ミルクを上げたりオムツを取り替えたりと、普通の母・父のやることをし、おかげで私は寝不足気味ではありましたが、家にオモチャが来たような気分で、居心地の良い日々を過ごしたものです。

しかし一方で、 "ムサシ" の方は私がたまにしか居ない上に、幸子が抜けたこともあり、売上げが激減して来ておりました。 これがボディブローのように経営に効き出して来ておりました。 私が、 "プチムサシ" を開店した時より更にです。 私の頭の中に『やはり、1人2役は無理なのか・・』という思いが出て来たのも無理はありません。 しかしチムサシの売上げが有りましたのでムサシの方の従業員の給料の支払いが出来ないと言う状況ではありませんでした。

昭和60年(1985年)には、茨城県南の "つくば" で "つくば科学博" が開催されることが決定していました。 土浦市および県南の市町村は、道路工事・ホテル建設などの金儲けで大騒ぎの真っ最中でした。 ムサシの在る土浦市の仲見世通りは、その上をモノレールが通るということで、噂では私のムサシも立ち退きをしなければならないということでした。 しかし、つくば博が終わった後のモノレールが必要かどうかという意見も多数有り、未だ決定には至っていない状況でした。

私的には、上手くモノレールの話が進み、立退料が入ればプチムサシ1本に力が注げるし、それに今よりも息子の直と一緒に居る時間が取れるし・・と、都合の良いことを考えていました。


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