夜逃げ

山辺の家は、居酒屋ムサシから歩いて5分程度の距離です。 仕事を終えてからだけではなく、雨で仕事が無い日とか、週の内4日・5日来ることもありました。 同業者の親方連中と来たりすることも少なくありません。 山辺の所の若い職人さん達は、彼らの同級生達を連れて来るようになり、金曜日・土曜日などは大学生と若い職人達で店が一杯になり、一般のお客さんが入れない状態になるのが当たり前でした。

安い価格設定をしたのにも係わらず、1日の売上げは軽く5万円をクリアーし、バイトの学生と夜中の1時頃まで右に・左にと動き回りプチムサシよりも疲れる日が有りました。 私は夜中の2時・3時に自宅に帰り、息子の直の願いを見て眠りに入る日々を過ごしていました。

悩みといえば、若い者達が酔って喧嘩をすることと、もう一つはツケが多くなって来た事です。 そのツケの筆頭は山辺でした。 彼は、親方連中の分と若い職人の分を払うことがほとんどでした。 そんな時の支払は2万円を超すこともありました。 『マスター、1万円しか無いんで、ツケておいてよ。 明日持って来るから・・』と言って、次の日に来るとまた2万円前後使って行く。

開店して半年後には、ツケだけでも50万円以上有り、そのうちの半分は山辺の分です。 でも、お金が回っていたのと、売上げが良かったこともあり運営上は余り気にならない状態でした。

山辺達のペンキ屋も、"つくば博" の影響でかなり仕事も有り、ツケてもその月内には2万円・3万円を残すだけでした。 同業社の話では、山辺には500万円の仕事も入ってきたりで、つくば博の恩恵をかなり受けている一人だったようです。 私もクラブなどへ数回連れて行ってもらったものです。

夜逃げ - つくば博

昭和60年(1985年)3月、"つくば博" がスタートした。 皆、金儲けが出来ると走り回っていました。 簡易ホテル・民宿は当たり前で、田畑を農家から借りて駐車場にする者、ドライブインを造る者、会場の中にお土産屋を出店する者。 会場の中の権利が取れず、会場の外で出店する者、凄いのは会場から2キロ・3キロ手前に駐車場を造り、自転車を100台も買い、それを1日1,000円でレンタルするというビジネスを考えた者もおりました。

茨城県南は、つくば博の話というより、業者をしている人は皆、金儲けの話で持ちきりでした。 つくば博に関連した仕事をしないのはバカかアホというムードが蔓延してました。 私もその一人でした。 ムサシに呑みに来る若者達を除く人たちとカウンター越しに話をしている内容はつくば博のことが大部分です。

私の兄は、川崎市で "横浜企画" という問屋を経営していたこともあり、また物販ということも私の好きな仕事の一つでした。 この兄と相談し、千葉県柏市のTシャツを売ることを考えました。 当然、つくば博関連グッズはみな版権が有ります。 しかし柏市のシャツには版権など無いも同然です。 テキ屋たちはTシャツやマグカップなどを作らせ売ろうと考えていました。

私は、持って生まれた性分なのか "ヤクザ" とか "銀行マン" などの組織の人間は怖くはありませんでした。 そういう人たちが強く出て来たりすると、逆にこちらも燃えてくる性分でした。 しかし反面、組織には "強く" それが私の最大の弱点であることも確かです。 それが逆に弱く出られるともう駄目です。 "しょうがねえか・・、もういいよ。" という言葉が出てしまうのです。 この性格で若いときからだいぶ損をしてきました。 そして、この性格が将来、自分にとって大きなマイナスになるとはこの時点では考えも及びませんでした。


 << 前に戻る   -5-   続きを読む >>